カウンセリングサービスの青山リナです。
今週末は、母校、神戸メンタルサービスで行われているヒーリングワークというワークショップに出席していました。
詳しくはこちら。
このワークショップでは、毎回テーマがありまして、今回のテーマは「愛を選択する生き方」というものでした。
私、カウンセリングの勉強をし始めるまで、自分が愛を選択しているのかしていないのか、なんて考えたことも、気にしたこともありませんでした。
勉強をし始めて、意識として頭にあっても、知識があるのと、実際に行動として愛を選択できるのとは別で、「そんなこと言ったって!」なんて思うこと、しょっちゅうありました。
愛の対局は無関心である、なんてマザーテレサの言葉をご存じでしょうか。
愛の反対にあるものは「怒り」だと昔は思っていたので、衝撃でした。
私もそうでしたけれど、「愛」とか「優しさ」なんてわかってはいるし、それが理想だと思っていたとしても、「怒り」を感じてしまう、「怒り」が収まらない、「怒り」を手放せない、「怒り」を手放してはいけないような気がする、なんてことすら感じてしまうってこともあったりしませんか?
私も思い出せば数えきれないくらい、あるんですよね。
でも、何か怒りを感じている時、とか、問題が起こっている時っていうのは、怒りを抱えている自分の不快感も確実にあるんだけれど、その怒りを収めることすらも、腹立たしく感じてしまっていたんですよね。
母との関係では、散々母に怒りをぶつけまくった過去もありましたし、元夫との関係でも、怒りをぶつけたことも、逆に、怒りを溜めこんでネチネチと、私が不幸なのはあなたのせい!という態度を取り続けたこともあったんですよね。
そこに関しては、私は、メチャメチャ時間がかかっていました。全然手放すことも許すこともできない時期が結構長くあったんですよね。
その時期は、本当にしんどかったです。
他の人が順風満帆で幸せそうに見えるし、自分だけどうしようもないダメ人間で、何も進まないし、何も変化しないようにも感じるし、生きてたって何も良いことないし、これから先も良いことなんて起こりっこない、とも感じたんですよね。いっそのこと自分の存在がパッと消えてしまえばいいのに、なんてこともしょっちゅう思っていましたね。
自分が怒りの中にいたり、分離を選択している時、私たちは、自分が良い存在だとは思えないんですよね。
自分で自分が良い存在だと思えないからこそ、自分を酷く扱ってしまったり、自分を罰するようなことをしてしまう。そんな自分には、人と愛し合う、なんてふさわしいとは思えず、分離を選び、1人でいることを選んでしまう、という負のサイクルを自分で作ってしまうんですね。
だけど、私たちって、ちゃんとこの世界に産まれてきているんですよね。
私たちがこの世界に産まれてくるためには、父という存在と、母という存在がいて、守られていなければ、産まれてくるって、不可能なんですよね。
私たち自身が、自分をどう位置付けて、どれほど自分がひどい存在なのかと思ったとしても、誰かにとっては自分という存在が、とても素晴らしい価値を持った存在に感じられている、ということ。
これは忘れてはいけない事実だと思うんですよね。
もし自分に、誰かと愛し合えるチャンスがあるならば
あなたは、自分自身に、人と愛を交わし合うことを、自分自身に許す勇気、持てますか?
それが、私たちが、愛のフィルターで出来事を見る、その大切な一歩なのではないでしょうか。
勇気が要りますよね。
ひとりでやる必要はないんです。
一緒に、一歩踏み出しませんか?