いつもありがとうございます。
カウンセリングサービスの青山リナです。
少し前のこと、だーりんと名古屋駅周辺で待ち合わせてランチをしました。
前日、何時に待ち合わせる?という話になり、何時に…と言っても、お店もまだどこに行くか決まっていない状態。
ん~、混み合う前に私は行きたい、だけどどこに?という状態で、あそこはどう?ここはどう?といくつかお店を提示してみたのだけれど、どこも、「え~」とか「そこはなんかな~」とか、決まらない…。
その日は私、疲れていたのでだんだん彼の、「え~」とか「そこはなんかな~」というのにイライラしてきました。
キーッとなった私は、「じゃあ、明日は私がランチごちそうするから、文句言わずに私の行きたいところに付き合って!後から時間は連絡するから!」と最後の手段に出て、電話を切りました。
あ~疲れた…
むしゃくしゃするし…
気分転換にお風呂でも入ろう…
そして…あぁ…明日、どうしよう。
なんかいろいろネットでランチを見てみたんですが、どうもこれと言って「ここ!すごく行きた~い!」というところが見つからないんですよね…。
困ったなぁ。
と思っていたら…
なんと!
これは天の啓示なのでしょうか?
「宮崎料理」なるものが!
実は、だーりんは宮崎出身。ここ何年かはコロナで地元に帰れていないのですね。
ここからは私の「天使のささやき」と「悪魔のささやき」とのバトル相談会です。
天使のささやき
悪魔のささやき
「宮崎料理だって!彼喜ぶんじゃない?」
「またどうせ本場の方が美味しいんだって、文句言うんじゃないの?もう文句言われるのウンザリよ!私がどんなに一生懸命探したってどうせ文句言うに決まってるじゃん!文句言われたらなんか私悲しいし、やることなすこと全部無駄みたいに思うし、もうそういうの嫌なの!」
「そうかな?文句言うかな?そんなこと言わないと思うよ。この前、冷や汁食べたいとか言ってたよ?」
「そりゃ言うよ。地元に帰れてないんだとかなんだとか、キミはずっと地元だからいいじゃないかとか、なんか私が悪いみたいに言うじゃん。そんなことより、私の好きなもの食べようよ~、彼に合わせなくてもいいよぉ!」
「私が悪いみたいに言わないと思うよ、彼。そんな嫌な人じゃないよ、あの人。彼に合わせなくても良いんだけど、探してもピンとくるとこ無かったじゃない?」
「探し足りないんだよ~!ちゃんと探しなよ!もう!私の好きじゃ無いものばっか出てきたら損じゃん!だって私がお金払うんだよ?損するものにお金払う気?バカじゃないの!?」
「結構いろいろ探したよ。損?そうかなぁ?あっちもこっちもいろいろ行ったことあるじゃない。行ったことないお店行くの私好きだよね?宮崎料理のお店なんて今まであった?面白そうじゃん。案外美味しいかもよ。彼も喜ぶなら損どころか、一石二鳥だと思うけどね。」
「うん、確かに…行ったことないところは好き…。」
「じゃぁ、宮崎料理のお店行ったことないじゃない?彼が喜ぶかどうかはわからないけど、嫌だとは言わないでしょう。もし言ったら、また考えたらいいじゃん。」
「うん…そうだね…わかったよ…」
とひとり相談会の上、宮崎料理に決定しました。
結果、私は美味しいチキン南蛮に出逢うことができ、
彼はあれやこれやと郷土の味を楽しんでおられました。
私たちは、「愛」もしくは「怖れ」の世界で生きています。
「天使のささやき」=「愛」
「悪魔のささやき」=「怖れ」
愛とは、私たちが本来望んでいること、心が喜ぶ状態です。
怖れとは、いわば過去に何らかの経験により傷ついて痛んだ状態。
例えば、赤ちゃんは、ある時期が来ると、自分で歩こうとつかまり立ちをしたり、よろよろと歩き出したりしますよね。
それを見ている大人は、応援する反面、ドキドキハラハラしませんか。転ばないだろうか。机の角で頭をぶつけないだろうか。ひっくり返って床で頭をぶつけないだろうか、などと。
赤ちゃん本人はそんな風にハラハラドキドキしているのでしょうか?
多分していませんよね。だってその経験がまだないから、怖さとか痛みとか想定しませんものね。
では大人はなぜそのような心配をしてハラハラドキドキしているのでしょう?
大人は知っているんです、自分たちの経験から、頭をぶつけたら痛い、ということを。怪我をする、ということを。そしてそんな経験をできることなら赤ちゃんにさせたくない、と思うんですね。
赤ちゃんが頑張っているのがわかるから、応援する気持ちもあるんですが、あ~でも見ていてハラハラドキドキ、なんならいつ赤ちゃんが転んでもいい様に、ちゃんと受け止めてあげられるように、手を構えて待っていたりしますよね。
そのようにして、今までの生きてきた中での経験値で危険を察知する能力が出来上がっているんですね。
危機管理能力としてはバツグンですよね。
ただ、その危機管理能力が高すぎてしまった場合、怖れが強すぎて愛に蓋をしてしまうんですね。
残念ながら私たちは、愛と怖れを同時に感じることができないのです。
それは同時に起こっているようだけれど、実際は、一瞬一瞬の選択で成り立っています。
愛を与える、という行為をしているか
愛をちょうだい、と求める側に立っているか
どちらか一方なのです。
そして、愛をちょうだい、と求める側に立っている時は、
私にはあげられる愛なんて無いのよ!とか
ちょうだいって言わなきゃ誰も私に愛なんてくれないじゃない!
という、
いわば愛がほしいと心の悲鳴をあげている時なのです。
そんな時は心は怖れでいっぱいです。
怖れで心がいっぱいの時は、誰かや何かが自分を攻撃してくるんじゃないか?なんて思ったりします。そうすると、守らなきゃ、って思いますよね。
守りに入っている時、自分に寄ってくる人は皆不審者のように感じます。
だから怖いし、怪しむ。
では、怪しまれた側は…?
なんだか近寄りたくなくなってしまいませんか。
私のこと不審者扱いされた、傷ついた。私は被害者よ!
なんて悪循環が起こってしまってもおかしくないですよね。
攻撃も守りも、被害者と加害者の競争なんですね。
でも愛には、被害者も加害者もありません。
無害なのです。
天使のささやきに耳を傾けるか
悪魔のささやきに耳を傾けるか
これはあなたにしか決断できないのです。
毎瞬毎瞬の選択の繰り返しです。
悪魔のささやきは、過去の傷。
悪魔のささやきを聞き続けている間は過去から離れられず、過去を生きている状態になってしまっているのです。
あなたの喜び、あなたの幸せは、今この瞬間にあります。
天使のささやきに耳を傾けてみてください。
あなたの喜び、あなたの幸せは、必ずその瞬間にあります。