カウンセリングサービスの青山リナです。
寂しかった記憶って、取り扱いが難しいな、と思うことがあります。
「寂しかったの!」と言える時、誰かを責めているような気分になるからなのかな、と思うのです。
実際、小さいころお母さんが見ていてくれなかった、とか、そんな不満が塊のように存在している時もあるんですけど、誰かを責めている時って、まだ自分の寂しさを認めやすかったりするんじゃないかな、と思うのです。
でも、確かに、お母さんが忙しかったのもわかっているし、でもそれを責めるつもりも無くて、理解している。そうなると…寂しかった、という気持ちがそこにあったとしても、それを言葉にできなかったり、それこそ、お母さんも頑張っているから、私も頑張らなきゃね、っていう感じで、寂しい、って思ってはいけないんじゃないかと、愛ゆえに、理解しているからゆえに、本来ある感情を無いことにしよう、としてしまったりするのではないかと思うのです。
私の話ですが、子供の頃、両親は離婚し、母は昼間仕事をしていたので、祖父母の家で過ごしていました。夜になると母が私を迎えに来てくれていました。
祖父母も、祖父母の家に同居していた叔父叔母、従妹たちも、とても良い人たちで、優しく、従妹たちとは、姉妹のように育ったがために、時には遠慮なく喧嘩をすることもあったくらいでした。
当時の話はこちらにも書いてあるので、良かったら読んでみてくださいね。
ある日、祖父母たち家族が、外食に出かけた日がありました。
もちろん、一緒に行くかと誘ってくれるんです。
でも私は、その日は、お母さんを待っている、と答えて、1人祖父母の家で待っていました。でもその日、母は忙しかったのか、なかなか帰って来ず、結構遅かったのです。
逆に、祖父母たち家族が外食に出かけ、帰ってきました。
私は、待っている間、特にすることも無く暇だったので、旅館ごっこだと思って、祖父母や叔父叔母、そしていとこたちの湯飲みをお盆に並べ、急須にお茶の葉を入れ、まるで旅館のテーブルに置いてあるように、きれいに並べておいたのです。
そして、母が来るより先に祖父母たちが帰ってきて、「お母さん、まだなの?」なんて声と共に、「あら、どうしたのこれ!?」と驚いてくれて、私が「旅館みたいでしょ?」なんて言うと、みんなが口々に「わ~、ありがとう~!」なんて言ってくれたんです。
それ自体は、私としては、成功した!っていう感覚で、嬉しかったし、嫌な気持ちの要素は無かったはずなのに、大人になってから、ふとこの出来事を思い出すと、何故か涙が出てくるようになったんですね。
なんでだろう?おかしいな?
そんな風に思っていたけれど、
私の中の寂しかった自分が、実はここにもいて、でも、寂しいって感じちゃいけない、って思っていたのか…私が寂しいって言うと、誰かに「ゴメンね」を言わせてしまうんじゃないか、って思ったのかな、と、そんな風に思ったのです。
当時の、子どもだった私の、愛ゆえ、だったんですよね。
こんな自分の、隠れていた感情に、気付いてあげられて良かったな、って思うんです。
寂しさって、見ちゃいけない、感じちゃいけない、という状態で抱えている量が多すぎると、本当に触れなくなってしまうんですよね、痛すぎて。そうすると、ガチガチに固めて、人の寂しさすらも見ない状態になるか、その寂しさを人にぶつけてしまうか、っていう状態になると思うのです。
私自身がそうでしたからね。
そうなると、不満は溢れるし、でも自分が望むようにもならないし、って何にも上手くいかないような現実の中で生きているような気分になりますよね。
寂しさって、とってもセンシティブだなって思うんです。
だけど逆に、それだけ頑張ってきた自分がそこにいることも確かなんですよね。
そんな自分自身を、抱き締めてあげたいですね。